信念

ただの深夜のポエム

ただのポエムである。

とても嬉しいことがあったでの書き連ねる。

 

嬉しいこととは、「人に対して怒りの感情が芽生えたこと」だ。

 

「来週までに〇〇します!」やっていなくても怒ることはない。無意識に期待することはできないから。

世話をすると決めたとき以外に怒るということはない。

 

突然だが、最後に人と喧嘩をしたのはいつだろうか。言い換えるならば、人に対して怒りの感情をもったのはいつだろうか。

 

今は大学4年の夏だが、少なくとも、高校生になってからは思い当たることがない。

もちろん、意見の食い違いによる対立みたいなものはあるが、それは喧嘩とはまた別物である。

僕の中で対立と喧嘩は似て非なるものである。

 

対立とはお互いの主張がことなることによって生まれる衝突だが、喧嘩は対立などが引き金となって感情をぶつけ合う行為だと思っている。(辞書的には違うかもしれないがポエムなのでこれでよい。)

だから、旅行先でどこに行くか意見が分かれ、雰囲気が悪くなるみたいなことは、僕の中では厳密には対立であり喧嘩ではない。ただ、一般的にわかりやすい表現として喧嘩を使うという認識である。

 

唯一、鮮明に覚えているのは、中学のハンドボール部時代に、練習試合の最中に隣のポジションの子に対して

「今は、俺に投げろよ!速攻すれば点取れただろ!!」

「相手は高校生なんだよ!このボールを投げてもゴール決まるわけねえだろ!!」

と、試合中に互いに激しく怒鳴ったことである。

思えばこれが、人生(現時点)で最後から二番目の心から自然に生まれた怒りだと思う。

 

僕は人を真に期待することができない。

 

きっかけはわからない、いや、まったく心当たりがないわけではないが、その瞬間から突然、無感情な人間に変化したというより、些細に経験を重ねるうちに人を期待することができなくなったのだと思う。

 

中学生の時はまとめ役になることが多かった。だから、面倒な仕事も多かったし、怒られることも多かった。理不尽に怒られることも、ぐうの音も出ないように怒られることも多かった。だいたい部活関連だが、とにかく、毎週なにかしら怒られていた。

怒られたくないから求められた成果は確実に出せるようにしていた。

なまじっか仕事はできたので、みんなと協力してやってねという意味が込められていたと思う依頼も、みんなに頼るよりも自分一人で片づけてしまった。その方が間違えることはない上に、無駄なリスクを抱える必要がないと判断するまでにそう時間はかからなかったのだ。

人に任せると、自分がやるよりも遅い上に間違える。さらに突然やらないなんてこともある。予定が狂わされるので効率が悪いと思ったのだ。まあ、100%間違っているわけではない。

 

そんなこんなで、自然と一人でなんでも抱え込むようになった。

部活では僕のせいで、長期的に見て組織の力を低下させる失態を犯していたが、そんなことを理解するには当時の僕には難しすぎた。

しかし、いつしかボロが出る。そのタイミングで監督に指摘をされた。いつものように怒られると思っていたが、そのときは怒られなかった。怒られるのではなく、周りを見ろと言われた。僕の周りに、半径2mくらいの円を書き「この円から出ずに、コートの準備をしろ」それだけ言われた。

 

動けなくなっては仕方がないので、チームメイトを頼った。

言わなくてもわかるだろうと思っていたことも、言わないと伝わらないことを知った。

そして、僕がやっていたことは僕以外でもできることを知った。

怒られたくないから、自分でやる。自己中心的だった。

頼れば助けてくれることも知った。そして、組織としての自分に求められる役割を知った。周りをみて、次の展開を伝えることが本来の仕事だと分かった。

慣れないながらも、周りをみるようになると、次に求められていることが分かった。しんどいときに最初の一歩を踏み出す人になることだと。

自分がそんなたいそうなことをできる人間だと思ったことはないが、自然と期待されていることは伝わってきた。嬉しいので最初は演じていたもが、部活が終わるころには自然とできるようになっていった。この場合の自然とは、場面における自然性であり心の奥から生まれた潜在的なものではない。

そのタイミングで監督から「お前の仕事は、コートを準備することでもカギをとることでもなくチームを動かすことだ」と言われた。その瞬間は30%くらいしか理解できなかったが大事だなと直感した。よく覚えている言葉の一つである。

 

ここまで振り返るとでたしめでたしだが、ドラマのような感動物語であるはずがない。

家に帰ると、その日の体験が漫画を読むようにプレイバックされてただの傍観者になる癖があった。僕はすごく冷めていた。部活の瞬間は熱いやつだったのに一人になると突然冷めたやつになる。

 

部活という枠組みの中で、キャプテンという役割を演じる(務める)中で、人を頼るという行為がチームを形成するうえで有効に作用する、だから頼る。

この仕事はこの人に任せると一定以上クオリティが期待できるから任せる。きっと初めは無意識だが、だんだんと明確に、意識的に、考えるようになっていった。

 

部活は終わったが、身についた思考の癖は変わるものではない。

他人を頼ることに対するリスク、頼ることで生み出される実質的リターン、個人や組織という関係性の上でのリターンとリスク、どんなときでも、ほとんど無意識といってもいいレベルで常に推し量るようになった。どんな人も多かれ少なかれやっていることだと思うが、自分の場合はかなり極端なのかもしれない。

 

これによって仕事に対して期待はできるが、その人を無条件に期待することはできなくなった。自分にとっては極めて普通のことだが、ある人から見ればすごく薄情なやつに思われるかもしれない。どう思おうとその人の勝手である。

 

特段、このことで悩んだりすることはなかった。基本的にこの特性は人間関係を悪くするものではない。むしろ、いい関係を作るの際にはプラスに働くものだと思う。

人は多面性のある生き物なので何らおかしいことではないのだ。

 

高校に上がり、自分と(勉強に対して)似た価値観をもった人々と触れ合う中で、同じように考える人が多数派ではないことがわかった。だからといって、なにか思うわけでもなくただそういう事実があることを知っただけである。

影響を与えることがあったとすれば彼女と出会い付き合ったことくらいである。自分とは正反対で、びっくりするくらい人を信じる力がある人だ。正直、自分では怖くて真似できない。逆に自分自身に対して自信がなさすぎるので支えたくなる。まあ、僕よりよっぽど強いのだけど。

彼女は無条件に僕を期待してくれる。正直、理解不能だ。純粋にそれができる人だったというわけだが、脱帽する。一方僕は何年たっても期待することはできない。浮気が心配とか、プレゼントのセンスがいいといった次元ではなく、もっと根本的なこの人はどんな状況でも裏切らないという期待のようなものである。

 

大学生になり、学内ではさらに似た属性が集まるようになった。一方で学外では全く違う属性の人と触れ合う機会が増えた。

自分が少数派であることは理解していたが、高校時代の自分の想像以上に自分が少数派であることを知った。いい悪いではなく、ただその事実を知った。だから何かを特別変えるわけでもないが、なお期待しない方向に傾くには十分な材料だったかもしれない。

 

大学3年の夏、同い年の一人の女性と出会い、より思考がクリアになった。

彼女は「私は優しくなんかない。あの子と私は友達なのに私はあの子になにも期待していない。ただ冷たいだけ。女子高時代を乗り越えるためにはそうなるしかなかった。」といった。

きっかけは違うが、似ていると感じた。よく違うと人と遊んでいる姿を見た。孤独を彼女から感じた。同じものが自分にもあるとも思った。

 

彼女がきっかけで、自身の人に対する接し方に対してよく考えるようになった。

 

無条件に期待をしないことは、決して悪い特性ではないが、心から信頼できる人には無条件の期待をしてもいいのではないのかと考えるようになった。今の自分にとっては最も難しいことの一つである。

 

中学時代は、親に対してなぜかいらいらした気がする。思春期だからだろう。

ものにあたることはなかったが、それでも、少なからず居心地の悪さを感じた。

きっと、何をしてほしいのかわからない自分がいる中で、無意識すら理解をしてくれると思っていた親に期待した結果が得られないことが気に障ったのだと思う。

でも、それは親が今まで無条件で無意識の期待に応えてくれていたことに対する反動なのだと思う。正常な反応である。

 

コロナの影響で研究室がリモートになり家族と過ごす時間が人生で最も長くなった。

親と自分では価値観が異なるから、すべてを共感してもらうことはそもそも期待してない。けれども、自分が成す道に対しては期待をしてもらうことを期待することはできる。

その代わりになにかを得たりあげたりするのでもなく、ただ、親だから自分を信じてほしいと期待をすることがあってもいいのだと考えるようになった。

 

同じように、彼女に対しても自分を信じてくれることを期待することがあってもいいと思っていたが、それを自覚してもできることなんてなかった。

 

しかし、つい先日電話をしていたら、ある行動に対して「なんで、○○しないの?」と言いたくなる瞬間があった。

自分が一番びっくりした。そんなことは、普通は言おうとすら思わないからである。

きっと彼女なら成し遂げられると、無意識に信じてやることを期待していたのだと思う。

そんなことは今まで一度もなかったので、すごく驚いたが、何かが変わった瞬間な気がした。

本当の意味で期待することが出来る日がまた訪れるのかもしれない。

 

蛇足だが、僕の中で強い人の定義は、人に頼ることができる人を指す場合が多い。

何でもかんでも頼るのは依存なので、全く別である。

そもそも頼るという行為は双方の信頼関係が成り立っていることが前提にあり、その上でこの人のために力を使おうという気持ちにさせる力があるからだ。

その点で、僕は彼女のことを尊敬している。

 

この思想もっている人は孤独になりがちなのかもしれないが、僕は意外と孤独ではない。

思想が普通ではないことを知ったうえでそれを理解して付き合ってくれる友人がいるからだ。そして、彼ら彼女らはなぜか僕を無条件に期待してくれる。きっとその事実が孤独ではなくしているのだと思う。勘違いなのかもしれないけどそれならそれでもいい。ただ、僕はその事実に救われているから。

一瞬友達が減ったような気がしたが、むしろ逆で、よい友に気づくきっかけになったのかも知れない。本当に気が合う人が片手手数えれる人数もいれば相当幸せな気がしている。

 

恵まれていることに感謝して終わる。

ここまで読んだ人がいたら大変申し訳ないが、正直、主張はよくわからない。ただ嬉しかったなぁと感想文を書いてるだけである。

ただ、今日という瞬間がこのことを書くべき日だと思ったから書いた。

そんなときもありますよね。

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